禅問答を解いて「無の境地」を味わう

瓢鮎図の示す禅問答を解いてみたら、まだまだ無の境地には至っていなかった件(画像は wikipedia より引用)。
瓢鮎図とは禅のある公案を絵にしたものだ。この絵は京都の妙心寺が所蔵しており、この寺のご御朱印帳の表紙にもなっている。公案とはいわゆる禅問答であり、和尚(方丈)が僧侶(雲水)に出題する、答えのない問いだ。
僧侶は座禅をしたり、寺の掃除をしたり、修行の中で回答を考えて和尚に伝える。多くの場合は修行が足りないと突き返されるのだが、その答えが核心をついているのであれば晴れて悟りを得たと認められる。
代表的な公案の中には、「犬に仏性はあるか」(「狗子仏性」。『無門関』という公案集の最初の問い)というものや、「両手で一度拍手する。その時、パンッという音は右の手が発したものか、左の手が発したものか」(「隻手の音声」江戸時代の禅師、白隠が考えたもの)というものがある。
学校で出題されるテストとは異なり、どちらもれっきとした答えはない。
問いも多様ならその答え方も多様だ。例えば、「仏陀とは何か」という問いに、ある僧侶が「干からびたクソだ」と答えた。すると、その僧侶は悟りを開いたと認められたという中国の逸話がある。
解説には以下のようなものだ。仏教の根本思想は、執着を捨てることで苦しみから逃れられるというものだ
仏陀は何ものにも執着するなと説いた。しかし、その仏陀にすがることこそ究極の執着なのであり、その意味で仏陀の教えを後生大事にしている人は永遠に悟りを開くことはできない。
「仏陀の教えすらも捨てて、仏陀自信を何の価値のないクソに喩えることで、その僧侶は執着心を捨てた。僧侶はは無の境地に至ったのだ」ということだそうだ。
似たような句に「仏に会えば仏を殺し…父母に会えば父母を殺し…。初めて解脱を得る …」(逢仏殺仏)という物騒なものもある。これは三島由紀夫の『金閣寺』にも登場する句であり、初めて接した時は意味が分からずそのインパクトに圧倒された(金閣寺は禅寺である)。
一度悟りの境地に至ったら、その言葉は自由になり、何にも束縛されないということは何となく分かる気がするものの、やはりこれらの劇薬とも言えるフレーズが飛び出してくるのは禅宗ならではだろう。それは自分が禅宗を好む理由でもある。
さて、瓢鮎図である。この公案は、「瓢箪(ひょうたん)で鯰(ナマズ)を押さえることができるか」という問いだ。瓢箪は丸くてスベスベで、鯰はヌルヌルして捉えどころがない。果たして瓢箪を使ってナマズの動きを止めることはできるだろうか。
この公案を知ってから5年以上経って、やっとそれらしい自分なりの答えが浮かんだ。悟りとは程遠いかもしれないが、 試みに書いてみる。
それは、「ナマズが泳ぐ池を瓢箪の形にしよう。ナマズは池から出られず、その意味で抑え付けられたのも同然だ。」というものだ。公案に対する答えの精度は、悟りに至ったかどうかを測るバロメーターである。この答えは実際どうなのだろうか。解答例を参照しよう。
実は、瓢鮎図の上部には31名の過去の禅師の回答が漢詩で記されている。そのうち2つを紹介しよう。
「瓢箪でナマズを抑えて、ナマズの吸い物を作ればいい。だが飯がなければしょうがない。砂でもたいて飯でも作ろうか。」
「瓢箪に油を塗って、急流に泳ぐナマズを抑える。あっちから抑え、こっちから抑え、抑えきれぬと分かったところで、求める心はやむ」
同上
この答えを読むと、私にはナマズとは煩悩であり、それを捨てたり忘れたり気にしないようにせよと言っているように思われる。翻って、ナマズを捉えてしまう私の回答は、私自身が本能に捉われていることを示す。悟りの道は遠いようだ。さて、皆さんならどう答えるだろうか。