20年以上の読書経験を経て、やっと本の著者と対話できるようになった

2024年の読書体験はいい滑り出しだった。
去年の夏ごろ購入して積読したのままだった『現代思想入門』を読み「全てのプロセスは途中だ」というドゥルーズの哲学に感銘を受け、完成することのない思考を手元のノートに書き散らし始めた。まだ1ヶ月しか経っていないのにもう60ページほど溜まっている。
また、『理科系の読書術』を読んで、書籍にはどんどん書き込みをして自分のものにする、読んで考えるのではなく考えるために読むという能動的な読書指南に膝を打ち、その次の本から早速実践している。
去年は「岩波講座 世界歴史」という歴史書のシリーズを半分くらい読んだ。今年は知識よりも世界の見方を豊かにするような思想や哲学の本を読もうと思い立ち、『私とは何か』、『ライティングの哲学』、『プロタゴラス』、『ソクラテスの弁明』、『ダンマパダ』など哲学書・思想書に取り組んでいる。
私は電子書籍ではなく紙派だ。モノとしての本に対する収集癖があるので、電子版では利便性を認めつつ、所有欲を満たせないので結局紙の本を読んでいる。まあ、電子書籍はどうも読んでも頭に入った感じがせず、本に記されている情報を受け取っただけという感じがするのでどうにも慣れないということもある。
物理本であるので、本を読み進めるうちに気になった一文があれば迷わず横線を引いている。さらに本の上下の余白にそのとき思った感想を書き込んでいる。
「これ良い表現だなぁ」とか「ソクラテス本人が詭弁家っぽいところもあるよ」とか「会話のように書く。Twitterの延長として書く。この境地に至りたい」のように、内容を把握するためのメモだけではなく本当にその場で頭に浮かんだことを、お気に入りのボールペンで書き込んでいる。そうすると、本が本当に自分のものになった気がする。
そんな読書手法を実践してきて、『方法序説』を読んでいる途中に「デカルト賢すぎる」と書き込んでいたら、はたと気づいた。著者の姿勢、息遣い、思考過程が以前よりクリアにわかるようになったと。これは20年以上読書をしてきた自分にとって新しく、また根源的な発見だった。
しかも高校生のときに乱読してみようと思い立ち、1年で100冊読む目標を立てて実際に達成できた過去もある。そのような経験を経ていてるため今更だという思いもあるものの、しかしやっとここまで来れたかと飛び上がるほどに嬉しい大きな進歩だった。
今までの読書はそこに書かれている知識や知見を味わったり、思想を自分の頭の中で整理するところで終わってしまっていた。たまに良い考え方があった時は自分の生活に取り入れたり、面白い記述に出会った時は少しデフォルメして人に話したりしていた。特に自分はある時期から小説を全然読まなくなり、歴史書や思想書、仕事で必要な知識を入れるための技術書を中心に読んでいたため、そのような姿勢が中心だった。
ただ、それではハッキリ言って趣味の読書の枠を出ない。著者が書いたことを一方的に受け止めるだけである。もちろん批判的に検討したり、内容が現代でも妥当するか吟味することはある。しかし、それだけだった。
ところが、その姿勢がガラッと変わったという感覚があるのだ。「読書とは著者との対話である」という一般的な格言があるが、この真の意味を理解したと思った。頭でわかるのではなく、内臓を示す「腑」(五臓六腑の腑)という言葉が入っているように、まさに腑に落ちたのだ。それは文字通り身体的な理解だった。
「読書は著者との対話だ」とはどういうことか。今までの自分は、どうも読書という体験を著者との対話ではなく、著者が一方的に大衆に対して自説と知識を披露する講演と捉えていたようだ。文化センターのホールに集まった大衆に混じって登壇している著者の話をマイク越しに聞いて、著者の主張を正しくまとめ、理解した上で、家に持ち帰って内容を検討する。そのようなモノとして接していた。
しかし、この格言のキモは「対話」である。対話とは、あるテーマについて人と向き合って会話をすることである。では、会話はどのような特徴を持つか。会話では自分の伝えたいことは100%伝わるわけではないし、相手の言っていることを額面そのまま認識齟齬なく理解することはできないという考え方は一般的だ。
人を対象とする会話と異なり、読書は本を対象とする。本には、著者の知識や考えが書かれている。そのように考えると、読書とは、著者に実際に話を聞きに行って対面で話を聞くということとほとんど同じだと言えるだろう。書かれる内容や話される内容の差異を一旦わきに置くと、自分の姿勢についてはそれを聞くか読むかの違いでしかない。
会話の醍醐味は、自分が思いもよらなかった相手の考え方や自分の知らない世界の知識を聞き、それに触発されて会話に参加している人たちみんなが思わぬ方向に会話が進むことにある。
「自分の経験に照らし合わせると、このように考えられる」「似たような事例としてこういうことがあって〜」などのように、脱線が多いと会話は広がり、そのような会話は必ず盛り上がる。自分の脳内にあるニューロンのネットワークを再構成すること、そのことを面白がっているのだと言っても良いかもしれない。
このように考えると「読書は著者との対話だ」という格言は、「ある人に話を聞いた上で、自分がそれに触発されて考えたことを表明する」と言い換えても良いだろう。話を聞く、つまり読むだけの読書は片手落ちなのである。孔子の言うように「学びて思わざれば則ち罔(くら)し」というわけだ。
結果、自分の読書姿勢は、書かれたことを誤読せず読み進めようとするものから、自分が単に感じたことやその文章を読んで自分が新しく考えたことを何でも本に書き込んだり、長くなりそうならノートに書き留めるというものに変わった。
頭に浮かんだことを書き留めることこそ、今までの読書姿勢に足りなかったピースであり、著者に対する私からの「返し」なのである。 返事や返答という言葉よりは、反応したことをよりカジュアルに表現すると、「返し」という表現が適切なように思われる。今までは「本にメモするのは最重要情報だけ」と考えていたが、今は思ったことを気にせずに書き込んでいる。
今読み進めているデカルトの『方法序説』もこの方法で読んでおり、いくつか連想したことをノートに書いたりしていた。しかし、この本を40ページほど読んだ当たりから(具体的には第3章終盤まで)、デカルトは賢すぎると感じ、。特にこれといった理由はなく数日ものあいだ読むのを止めてしまっていた
そして、なぜ中断してしまったのだろうと考えたら、彼が賢すぎて眩しく感じ、自分が萎縮していたからだと分かった。しかし、同時にもう一つの面白い事実に気がついた。つまり、デカルトに対して「賢すぎて、おいそれと近よりがたい」と感じたことこそ、本を通してその人の姿が見えており、対話できているという証拠だと。すると、読書と対話についての洞察が頭に閃き、この文章が出来上がった。
実は今日の夕食時、妻に全く同じ内容を面と向かって話していた。まるで自分の口から書き言葉が出てきているのかと思うくらい、整理された内容で無駄なく流暢に、この「明晰かつ判明」な内容を話せたと思ったのだが、彼女の返事は一言「確かに、読書は対話っていうよね。で、このオニオンドレッシング美味しいね」だった。
昔の自分なら自分の話が聞かれていないと思ったり、こんなに素晴らしい体験をしたということがまるきり伝わっていないと感じ、内心憤っていたかもしれない。しかし、対話には誤解や脱線がつきものである。そのことを腑落ちしている私は、「茶碗の米もうまく炊き上がっていて美味しいよ」と笑顔で「返した」のだった。