仏教の考え方を知り、日常で少し実践してみると、これが悟りというものかと思うと同時に、自分がその境地に至るにはまだ早すぎるのではないかと思い至ってやめてしまった。マネージャーとの1 on 1で悟りの境地を語ったら白眼視されてしまったからである。正直、かなり反省した。そして、悟った人というものは社会生活をまともに送れないのではないかと思った。前置きが少々長くなるが、お付き合い願いたい。

私は京都で大学生活を送ったのがきっかけで、神社仏閣を巡るのにハマった。そのうちに、ただ巡るだけでは勿体無いと思って御朱印を集め始めた。もう7年前のことになる。大学卒業後、京都のみならず全国各地に旅行したときは、その土地の主要な神社やお寺を観光ルートに組み込んで参拝し、御朱印をもらうことにしている。その甲斐あって御朱印帳ももうすぐ3冊目に入る。

2024年の読書は思想系に取り組もうと決めた。仕事終わりにある本を書店に探しに行った際、そこに並んでいた『ダンマパダ ブッダ 真理の言葉』を見つけた。

https://amzn.to/3uUl97d

その書店に目的の本はなかった。手ぶらで帰るのもなと思い、この本を手に取って解説パートを軽く立ち読みしてから購入を決めた。

『ダンマパダ』は、紀元前2~3世紀ごろに成立したと推定され、当時すでに成立していた仏教の経典の中から重要な語句を抜粋してカテゴリ別に編集したものだ。成立が古いため、ブッダの教えをかなり生に近い形で記述していると考えられているそうだ。

自分は御朱印を集めたり、過去に禅宗などの仏教の解説書を読んだりしているが、ブッダ本人の教えには直接接したことがないなと思った。

また先月、友人と新幹線に乗っている間、目的地に着くまでに話をしているとたまたま宗教について話が及んだ。その際、京都出身の友人の話が印象に残っていたことも購入の決め手だった。

友人曰く「子供の頃、法事の会場にお坊さんが来てお経を上げてくれてん。読経の後、その場のみんなに対して心に残るいい話をしてくれた。小さいながらにいい話をしてくれたこの人もいい人なんやと思ったんやけど、その後、たまたまそのお坊さんが待合室でタバコを吸っているのをみて一気に幻滅した。結局、その話もいい話だとは思わなくなったし、俺今も仏教信じられへんわ」と。

友人は終始ニヤニヤしながら話していたし、深刻感や悲壮感は全くなかった。その話はいろいろな角度から説明できそうだと思った。ただ、「カエル化現象」とか「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」などのような言葉しか思いつかず、そんなありきたりの言葉で話しても面白くはないかなと思い、「日本では戒律が緩いけど、タイでは厳しいらしい。その坊主が嫌いになっても、仏教は嫌いにならんといて」と返した。友人は「まあ、日本は緩い方らしいな」と言ってくれた。しかし、自分の中ではどうもお茶を濁しただけだったなという感覚しか残らなかった。

さて、書店で本を購入して家路につく途中で改めてこの話について考えてみた。ブッダならそのタバコの僧侶になんと言うだろうか。仏教の教えではどのように扱われるのだろうかと。そして、この本を読み進めていくうちに思わずその答えを見つけた。

307 僧衣を纏っていても、行いが悪く、慎みのない人が多い。
彼らは、悪い行いによって地獄に落ちる。

ダンマパダ (今枝由郎、光文社古典新訳文庫)p.105

地獄に落ちるとはなんとも直接的な表現ではあるが、これは最後の審判で神によって天国か地獄かに分けられるあの西洋的な地獄ではない。仏教上の地獄とは、六道輪廻のそれである。

簡単に書くと、仏教的世界観では、生きとし生けるものは死ぬとまた別の世界で生まれ変わるとされている(輪廻転生)。しかし、何に生まれ変わろうが、生きている限り生老病死(四苦八苦の四苦)に代表される苦しみに苛まれるだけである。このため、目指すべきはこの輪廻の世界からの脱出(解脱)であり、それこそが悟りの境地に至ること(涅槃、ニルヴァーナ)なのである。

では、どのようにして悟りに至るのか。それは、この世は苦しみに満ちていると知ることである。この世は思い通りにならない。一度生まれたからには死にたくない。永遠に若いままでいたい。病気にならず健康で居続けたい。それはどのような科学技術を以てしても土台実現は無理な話なのである。

「この世は苦しみに満ちている。そして、苦しみは物事に対する執着心から生まれる。ならば、執着心を捨てれば苦しみはなくなる。」ブッダの教えは、つまりこう言うことだそうだ。その考え方は彼の言葉に端的に表れている。

50 他人の過ち、他人のしたこと、しなかったことを気にするな。
ただ自分のしたこと、しなかったことだけを気にかけよ。

183 自分の心を浄め、もろもろの悪きことをなさず、
もろもろの善いことを行う。これがもろもろのブッダの教えである。

前掲書 p.28, 70

この思想から出てきた箴言の数々を読んだあと、思考実験をしてみた。例えば、大事に使い続けている財布を無くしたり、クラウドに保存した10年以上前から溜めている数々の写真が消えてしまったら、その時自分はどう感じるのか。

また、家族が死んだら自分はかなり長期間に渡って苦しむだろう。一方、自分がじわじわ弱る老衰ではなく突然死んだとしたら、残された家族は一体どうなるのだろうか。ただ、それは突然すぎて想像する余裕すらないかもしれない。

できるだけ若く健康でいたいけれど、それは老いというものを間近で見聞きしたり、病気という身体の不調が精神にまで悪影響を与えるということを知っているからだ。しかし、死というものは、その体験者が誰にも伝えることができないので、どういうものかは実際にわからない。

そういえば、ハイデガーも暇つぶしの空談を避けて自分が死ぬ存在であることを引き受け、自らの生と向き合うべきだと言っている(と文学部の唯野教授が言っていた)。このような執着心についての思考実験が死に対する心の準備なのではないか。

その辺りのことをぼんやり考えていると、しばらくは心配事が何もないような気がした。現に今は家族が心身ともに健康で、自分の衣食住が満ち足りていた。また、最近1年半以上携わったプロジェクトも無事最終リリースに漕ぎつけ、次のプロジェクトにはまだアサインされる前のタイミングであり、仕事のストレスが軽減されていた時期でもあった。

このため、現状に十分満足しているというその気分を大事にしながら、数日後にマネージャーとの30分の1on1に臨んだ。

その1on1は、会社で組織変更があり、担当のマネージャーが新しくなってちょうど1ヶ月ほど経ったときのことだった。すでに彼との1on1は3,4回経験しているものの、リモートワーク中心で働いていることもあって、全部オンラインで実施されていた。また、今までそのマネージャーと対面で話したことがあるのは片手で数えられる程だった。それも挨拶程度で深い話はしたことがない。

そんな状況の中、1on1のアイスブレイクで雑談をしているときだった。マネージャーから振られた話題は最近何にハマってますかというような他愛もないものだったと思う。そこで何を思ったか、自分はこんなことを口走ってしまった。

「最近は仏教思想についての本を読んでいるんですが、なんていうんですかね、なんだか欲がなくなってきたようで、満ち足りているんです。死ぬ準備でもしてるんですかね(笑)」と。半分冗談めかして、しかし半分はこれって人生で大事なことなんだよと思いながら。その時は、まあ特に問題ないだろうと思っていた。

しかし、マネージャーが自分の言葉を聞いた時に、パソコンの画面越しに一瞬目を見開いたのを自分は見逃さなかった。瞬間、しまった、と思った。1on1で話す内容にしてはあまりに場違いすぎた。

それもそのはずである。1on1では、会社の方向性や自分の仕事に由来する悩み事を話したり、また私事で仕事に支障が出る突発的なことを事前に共有するのが通例である。仕事上どうしても伝えないといけないことは意を決して伝えはするものの、基本的に雑談は雑談でしかないので、ハードな話題は避けるべきなのである。

前のマネージャーとの1on1の時は、私もそのような暗黙のルールに従って話題を選んでいた。しかし、マネージャーが変わって心機一転、少し油断が生まれたのかもしれない。逆説的なのだが、ありのままの自分でも受け入れられるのではないかという淡い期待がマネージャーの白眼視をきっかけに消え去ったことで、私自身がそのような期待を抱いていたことに気がついたのだった。

会社の立場に立つと、ある社員が「何事にも満足しており、まるで死ぬことを待っているようだ」などと言っていれば、それは出世や成長を諦めてしまった窓際社員のそれであり、その人は無能のレッテルを貼られてもおかしくないだろう。

企業が従事している経済活動など、人間の欲をドライバーにしている最たる例だ。「もっと市場を広げたい」「より良い製品を作りたい」「現状に満足するな。停滞は衰退である」という思想が隅々まで行き渡った企業組織の中でそんな発言をすると、一瞬で立場が危うくなるだろう。窓際どころか、はっきり言って即クビにされてもおかしくない。

「明日死んでも良いように生きよう」というどこかの偉人が語った境地は、欲を捨て去って満足することではなく、今日の欲を全て満たそうという現実的で力強い標語なのだ。何事にも無欲な人間は会社にはいらないのである。

そんなことが一瞬で頭を駆け巡った。その後は何を話したか覚えていない。直接の前言撤回はしないまでも、「ああ、いえ、ええと、勘違いしないでください。私は労働意欲があり、最新情報の収集を怠らず、大きな仕事を任せてもらって成長したいです」というのが伝わるようになんとか言葉を紡いだ気がする。

1on1が終わり、私は一人自室で取り残された。やっぱりさっきの発言はマズかった。自分の中で思うにしても、口に出すべきではなかったと後悔した。部屋を出てリビングで水を飲んだ。一息ついて、銀行口座の残高を確認し、妻と見知らぬ土地に旅行に行くシーンを想像し、実家の家族の顔を思い浮かべた。

そして、欲というのは生きる原動力だと思い直した。当たり前だが、即座に良い女、良い酒、飲む打つ買うを根本に据えようとまでは流石に思わない。

ただ、衣食住を満たすことや家族をできるだけ守ること、仕事を通じて人と繋がり自分も成長をすること。自分の中からどうしても無くならない、知らないことを知りたいという欲や面白い文章を書き残したいという欲があり、それらが自分を支えていることを見つめ直した。

そして、それらは根源的で受け入れるべき欲求であり、私にとっては煩悩ではないと考えることにした。同時に、ブッダの教えを全て体現するような真の宗教者は、会社に属しては生きられないのではないかとも思った。

翌週、また1on1があった。マネージャーから伝えられたのは、現在難易度が高めのプロジェクトがあって今まさに人手不足なので、そこにヘルプに入ってもらうかもしれないということだった。

よかった。やる気のない社員とは思われていないようだ。「執着を捨てよ」というブッダの教えは自分には早すぎたんだ。80歳になったらまた読もう。いつになるかわからないが、退職するまでは欲に塗れてもがきながら生きていこう。そう決意したのだった。

プログラミングをするパンダ
プログラミングをするパンダ (@Panda_Program)
Software Engineer

2024年の読書体験はいい滑り出しだった。

去年の夏ごろ購入して積読したのままだった『現代思想入門』を読み「全てのプロセスは途中だ」というドゥルーズの哲学に感銘を受け、完成することのない思考を手元のノートに書き散らし始めた。まだ1ヶ月しか経っていないのにもう60ページほど溜まっている。

また、『理科系の読書術』を読んで、書籍にはどんどん書き込みをして自分のものにする、読んで考えるのではなく考えるために読むという能動的な読書指南に膝を打ち、その次の本から早速実践している。

去年は「岩波講座 世界歴史」という歴史書のシリーズを半分くらい読んだ。今年は知識よりも世界の見方を豊かにするような思想や哲学の本を読もうと思い立ち、『私とは何か』『ライティングの哲学』『プロタゴラス』『ソクラテスの弁明』『ダンマパダ』など哲学書・思想書に取り組んでいる。

私は電子書籍ではなく紙派だ。モノとしての本に対する収集癖があるので、電子版では利便性を認めつつ、所有欲を満たせないので結局紙の本を読んでいる。まあ、電子書籍はどうも読んでも頭に入った感じがせず、本に記されている情報を受け取っただけという感じがするのでどうにも慣れないということもある。

物理本であるので、本を読み進めるうちに気になった一文があれば迷わず横線を引いている。さらに本の上下の余白にそのとき思った感想を書き込んでいる。

「これ良い表現だなぁ」とか「ソクラテス本人が詭弁家っぽいところもあるよ」とか「会話のように書く。Twitterの延長として書く。この境地に至りたい」のように、内容を把握するためのメモだけではなく本当にその場で頭に浮かんだことを、お気に入りのボールペンで書き込んでいる。そうすると、本が本当に自分のものになった気がする。

そんな読書手法を実践してきて、『方法序説』を読んでいる途中に「デカルト賢すぎる」と書き込んでいたら、はたと気づいた。著者の姿勢、息遣い、思考過程が以前よりクリアにわかるようになったと。これは20年以上読書をしてきた自分にとって新しく、また根源的な発見だった。

しかも高校生のときに乱読してみようと思い立ち、1年で100冊読む目標を立てて実際に達成できた過去もある。そのような経験を経ていてるため今更だという思いもあるものの、しかしやっとここまで来れたかと飛び上がるほどに嬉しい大きな進歩だった。

今までの読書はそこに書かれている知識や知見を味わったり、思想を自分の頭の中で整理するところで終わってしまっていた。たまに良い考え方があった時は自分の生活に取り入れたり、面白い記述に出会った時は少しデフォルメして人に話したりしていた。特に自分はある時期から小説を全然読まなくなり、歴史書や思想書、仕事で必要な知識を入れるための技術書を中心に読んでいたため、そのような姿勢が中心だった。

ただ、それではハッキリ言って趣味の読書の枠を出ない。著者が書いたことを一方的に受け止めるだけである。もちろん批判的に検討したり、内容が現代でも妥当するか吟味することはある。しかし、それだけだった。

ところが、その姿勢がガラッと変わったという感覚があるのだ。「読書とは著者との対話である」という一般的な格言があるが、この真の意味を理解したと思った。頭でわかるのではなく、内臓を示す「腑」(五臓六腑の腑)という言葉が入っているように、まさに腑に落ちたのだ。それは文字通り身体的な理解だった。

「読書は著者との対話だ」とはどういうことか。今までの自分は、どうも読書という体験を著者との対話ではなく、著者が一方的に大衆に対して自説と知識を披露する講演と捉えていたようだ。文化センターのホールに集まった大衆に混じって登壇している著者の話をマイク越しに聞いて、著者の主張を正しくまとめ、理解した上で、家に持ち帰って内容を検討する。そのようなモノとして接していた。

しかし、この格言のキモは「対話」である。対話とは、あるテーマについて人と向き合って会話をすることである。では、会話はどのような特徴を持つか。会話では自分の伝えたいことは100%伝わるわけではないし、相手の言っていることを額面そのまま認識齟齬なく理解することはできないという考え方は一般的だ。

人を対象とする会話と異なり、読書は本を対象とする。本には、著者の知識や考えが書かれている。そのように考えると、読書とは、著者に実際に話を聞きに行って対面で話を聞くということとほとんど同じだと言えるだろう。書かれる内容や話される内容の差異を一旦わきに置くと、自分の姿勢についてはそれを聞くか読むかの違いでしかない。

会話の醍醐味は、自分が思いもよらなかった相手の考え方や自分の知らない世界の知識を聞き、それに触発されて会話に参加している人たちみんなが思わぬ方向に会話が進むことにある。

「自分の経験に照らし合わせると、このように考えられる」「似たような事例としてこういうことがあって〜」などのように、脱線が多いと会話は広がり、そのような会話は必ず盛り上がる。自分の脳内にあるニューロンのネットワークを再構成すること、そのことを面白がっているのだと言っても良いかもしれない。

このように考えると「読書は著者との対話だ」という格言は、「ある人に話を聞いた上で、自分がそれに触発されて考えたことを表明する」と言い換えても良いだろう。話を聞く、つまり読むだけの読書は片手落ちなのである。孔子の言うように「学びて思わざれば則ち罔(くら)し」というわけだ。

結果、自分の読書姿勢は、書かれたことを誤読せず読み進めようとするものから、自分が単に感じたことやその文章を読んで自分が新しく考えたことを何でも本に書き込んだり、長くなりそうならノートに書き留めるというものに変わった。

頭に浮かんだことを書き留めることこそ、今までの読書姿勢に足りなかったピースであり、著者に対する私からの「返し」なのである。 返事や返答という言葉よりは、反応したことをよりカジュアルに表現すると、「返し」という表現が適切なように思われる。今までは「本にメモするのは最重要情報だけ」と考えていたが、今は思ったことを気にせずに書き込んでいる。

今読み進めているデカルトの『方法序説』もこの方法で読んでおり、いくつか連想したことをノートに書いたりしていた。しかし、この本を40ページほど読んだ当たりから(具体的には第3章終盤まで)、デカルトは賢すぎると感じ、。特にこれといった理由はなく数日ものあいだ読むのを止めてしまっていた

そして、なぜ中断してしまったのだろうと考えたら、彼が賢すぎて眩しく感じ、自分が萎縮していたからだと分かった。しかし、同時にもう一つの面白い事実に気がついた。つまり、デカルトに対して「賢すぎて、おいそれと近よりがたい」と感じたことこそ、本を通してその人の姿が見えており、対話できているという証拠だと。すると、読書と対話についての洞察が頭に閃き、この文章が出来上がった。

実は今日の夕食時、妻に全く同じ内容を面と向かって話していた。まるで自分の口から書き言葉が出てきているのかと思うくらい、整理された内容で無駄なく流暢に、この「明晰かつ判明」な内容を話せたと思ったのだが、彼女の返事は一言「確かに、読書は対話っていうよね。で、このオニオンドレッシング美味しいね」だった。

昔の自分なら自分の話が聞かれていないと思ったり、こんなに素晴らしい体験をしたということがまるきり伝わっていないと感じ、内心憤っていたかもしれない。しかし、対話には誤解や脱線がつきものである。そのことを腑落ちしている私は、「茶碗の米もうまく炊き上がっていて美味しいよ」と笑顔で「返した」のだった。

プログラミングをするパンダ
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なぜスライド作りに時間がかかるのか

スライド作りというものは時間がかかるものだというのが世間一般の共通認識のようです。何度か登壇を繰り返すうちに、スライド作りの手間を大幅に省けるアイデアが閃きました。この方法は誰でもすぐに真似できるため、この記事を最後まで読んでくださったら、その日からシステマティックにスライド作りができると思います。

まずは、なぜスライド作りに時間がかかるのか、スライド作りのペイン(辛さ)の原因を列挙してみました。「さあスライドを作ろう」とGoogle Slidesやパワーポイントを開いた時を思い出しながら読んでみてください。

直にスライドを作るときの Pain

1. 見た目の調整に時間がかかる

まずは「見た目の調整に時間がかかる」ことです。これは一枚でもスライドを書いた人なら良くわかると思います。

見た目が整っていなければ内容はきちんと伝わりません。内容がどれほど良かったとしても、スライドがわかりにくければ「目が滑る」と言われて読まれないかもしれません。読まれなければ、内容は伝わりませんね。

このため、最低限でもいいので見た目を整える必要があります。そこで色々な機能を使って試行錯誤するので時間がかかってしまいます。

2. 内容の構成作りがうまくいかない

スライドを作るにあたって、発表内容を人に伝えることを一番に考えると思います。その際、話の流れが重要なポイントになります。3部構成なのか、起承転結で話すのかなどがそれにあたります。

しかし、スライド作りは1枚目から最後まで順番に作れることはありません。1枚のスライドの情報量が多くなればスライドを分割したり、話の流れをスムーズにするためにスライドを前後に移動させることはよくあることです。

全体構成が初めから決まっていれば制作時間を短縮できますが、スライドを作りながらやっと全体の構成が見えてくるということもあります。

3. 各スライドの関連を把握しづらい

スライド同士は独立しています。現在作っているスライド1枚に集中しすぎてしまうと、他のページでも同じことを書いていたり、別の箇所で説明をした方が話の流れがスムーズだと気付けないかもしれません。

スライドは前から後ろに1枚ずつめくっていくため、全てのスライドを一度に見渡しづらいです。このため、スライドの各ページごとの関連性を把握することはそれほど簡単ではありません。スライドを前後に移し替えたり、作ったり消したりしている間に時間が過ぎてしまい、本来やりたかった「人に伝えたい内容をスライドで表現すること」に集中できなくなります。

どのようにすれば効率的にスライドを作れるのか

スライド作りには時間がかかります。そこで、時間がかかる原因であるこれらのペインを解消する方法を考えてみました。

スタイルとコンテンツの分離

スタイル = 見た目、コンテンツ = 中身と定義します。すると、スタイルとコンテンツは分離可能だとわかります。スタイルの調整は時間がかかる上に終わりがありません。スタイルの調整、スライドの見た目を整えることは後回しにしましょう。

先にコンテンツだけを作成する

まずはコンテンツ、すなわちスライドで伝えたいことを作成します。コンテンツの階層を表現できるものであればツールは何でも構いません。紙でもいいですし、スプレッドシートでも良いです。少なくとも、以下に述べるように4階層を表現できれば構いません。

コンテンツは、大項目、中項目、小項目と小項目の補足(以下、補足)で表します。大項目は3つから4つ作成します。これがコンテンツの骨格になります。大項目のそれぞれに対して主張を支える根拠を中項目とします。そして、小項目は中項目をさらにわかりやすく分解したものであり、補足で具体的な視点を提示します。

大項目、中項目、小項目のFigJam

表現が抽象的になってしまいましたが、図示するとすぐに腑に落ちると思います。この記事であれば、「どのようにすれば効率的にスライドを作れるのか」を大項目、「スタイルとコンテンツの分離」を中項目、「スタイル = 見た目、コンテンツ = 中身」を小項目とし、「スタイルの調整を後回しにする」を補足としています。

本記事では大項目、中項目、小項目はそれぞれ大見出し、小見出し、小見出し、補足は本文に相当します。コンテンツを作成する際、このように階層構造を表現できるのであればどのようなツールを用いても構いません。

私のおすすめは、FigJamやmiroといったホワイトボードツールを使うことです。これらは一覧性に優れているのみならず、記述の追加、訂正、削除が簡単であり、順番の入れ替えも手軽にできるからです。デジタルツールを使わない手書きの場合は付箋やカードを用いると良いでしょう。

コンテンツの段階でレビュー依頼が可能になる

このようにコンテンツだけ先に作っておくと思わぬメリットがあります。コンテンツを作成した段階でレビュー依頼を出せるのです。発表スライドのレビューをする側もコンテンツとスタイルを同時にレビューすることは大変です。中身も見た目も良くないスライドの場合、レビュワーはどこから指摘すればいいかわかりません。スタイルを指摘している間にタイムリミットが来てしまうかも。

そこで、コンテンツだけ先にレビューして貰うのです。「後で見ておいてください」と投げるのではなく、必ず「大体こういう話をします」と口頭で流れを説明していきましょう。

すると、話の流れがおかしいところであったり、説明が足りないところであったり、反対に詳細過ぎる箇所が自分でもわかります。その際は即座にコンテンツを修正して流れを確認します。もちろん、話しながら思いついた新しいアイデアを加えても構いません。そして、レビュワーから指摘がある箇所はその場で直してしまいましょう。

コンテンツに対して自分もレビュワーもおかしいと思う箇所がなくなれば、コンテンツ作りは完成です。

コンテンツの表現方法を選択する

スタイルとコンテンツを分離することにより、コンテンツの表現方法(プレゼンテーション層)はスライドのみならずブログなど様々なスタイルを持つことができます。

しかし、本記事はスライドを効率的に作成する方法を紹介する記事です。このため、まずはコンテンツをスライドで簡単に表現する方法から紹介します。

スライド

ここまででコンテンツを階層構造で作成しました。この階層構造をスライドで表現していきます。

スライドは「表紙」「目次」「区切り」「画像と説明」の4種類だけで十分です。以下に具体例を示します。なお、スライド例はコンテンツに集中するために余計な装飾を排していますが、色を使うなどもう少し注意を引くように作っても良いでしょう。

まず、「表紙」は以下のようにタイトルと発表者名が書かれていれば十分です。

スライドの表紙

最初の1ページ目でしか使わないのであまり凝らなくても良いと思います。

次に「目次」です。目次にはコンテンツで作成した大項目を並べます。今回は「なぜスライド作りに時間がかかるのか」「どのようにすれば効率的にスライドを作れるのか」「まとめ」を大項目としたため、そのまま並べています。

スライドの目次

目次は本題の前に表示するだけではなく、次の大項目に移る直前で再利用できます。これから説明する大項目だけそのままにしておき、他の大項目の文字の色を薄くしておきます。これでオーディエンスにとって発表がどこまで進んでいるかわかりやすくなります。

スライドの見出し

さらに「区切り」を作ります。これは中項目を表示するために使います。表紙のように、真ん中に大きな文字を置くだけで良いでしょう。一番シンプルです。

スライドの中項目

最後に「画像と説明」のスライドを作ります。「画像と説明」は、大項目、小項目、補足を掲載します。

画像を載せることで、文字の入力欄は3つしかないのに内容が充実しているように見えます。画像は内容に関連するものや、雰囲気を伝えるものを選びましょう。

スライドの詳細な説明

まとめると、コンテンツの大項目、中項目、小項目、小項目の補足を上記の4種類のスライドにシステマティックに当てはめていくことが、スライドを効率的に作成する方法だということです。

スライドの表紙に注釈がついている

スライドの目次に注釈がついている

スライドの区切りに注釈がついている

スライドの詳細な説明に注釈がついている

コンテンツは予め作ってあるので、話の構成に悩んだり何を書くべきか迷うことがありません。また、スタイルを上記の4パターンに限定することで、内容はコンテンツからほぼコピペで済みます。コンテンツをスライドに移し終えた段階で、あれほどキリがなかったスタイル調整もほとんど終わっていることに気づくはずです。文字が長過ぎて改行される箇所などを少し整えれば完了です。

ブログ

今まで見てきたように、コンテンツは階層構造(ツリー構造)で構成されています。本記事で少し言及しているように、実はこの記事自体も予め別で作成したコンテンツをそのままブログ形式で表現したものです。

FigJamの全体像

文章も階層構造であるため、大・中・小項目はそれぞれ大見出し、中見出し、小見出しに相当します。HTML では h2, h3, h4 です。小項目の補足はそのまま小見出しに対応する本文です。

なお、Fusuma というツールを使えばマークダウンからスライドを自動生成できるため、シンプルな構成でよければ Google Slides を作る必要すらありません。ツールを上手に使いこなして効率化を図りたいですね。

その他の表現方法

スライド、ブログと続けて見てきてお分かりかと思いますが、これはどんな表現方法にも応用が効きます。例えば、特定のテーマについての連続ツイートであったり、YouTubeの動画でも構いません。同じコンテンツであっても、メディアが異なればリーチする層も広がります。ぜひ良質なコンテンツをたくさんの人に届けてみてください。

自動化への道

最後にコンテンツをスタイルに変換するという自動化の方法を検討してみます。先に結論を述べておくと、自分は現段階で良い自動化の方法を思いついていません。

input と output に分けて考える

outputをスライドとすると、Google Slides APIを活用すればスライドの自動生成は可能だと思います(まだ未検証です)。また、ブログ記事のためにマークダウンをoutputとするのもあまり難しくないことは想像できます。

output は自動化できそうだと想像できるものの、inputが一筋縄ではいかないと考えています。

input の自動化の方法を考える

inputとは、プログラムによるコンテンツの読み取りです。コンテンツをFigJamで作成する場合、私は現段階で大・中・小項目を自動で読み取る方法を知りません。ただ、FigJamでプラグインを作れるようなので、もしかしたら読み取りは可能かもしれません。

他には、スプレッドシートのSheets APIを使うことを考えてみました。これはかなり有力な手段だと思います。

ただし、コンテンツの作成から完成までスプレッドシートで行うのは大変そうに感じられます。FigJamのようにアイテムをドラッグ&ドロップで自由に動かせるという利点がなくなってしまうからです。話の構成が固まっていない段階ではこれは致命的です。

もしスプレッドシートを使うなら、コンテンツが完成した後にコピペで構造をスプレッドシートに移すのが良いでしょう。しかし、そうであればもはやGoogle Slidesやマークダウンに直接コピペをする手間と何も変わらないと感じてしまいます。自動化をする手間とそのリターン、つまりROI(投資対効果)を考えると自動化は割に合わなそうに思います。

まとめ

本記事では、スライドというものをコンテンツとスタイルに分解し、コンテンツを先に作ってスタイルを後で整えるという効率化のアイデアを紹介しました。

しかし、そもそも伝えるべきコンテンツが思いつかない場合や、アイデアの整理ができていない場合はどうすれば良いのでしょうか。

そのような時は、マインドマップを作ってみると良いでしょう。この記事を作成するにあたり、私は以下のようなものを作ってみました。

マインドマップ

ほとんどツリー構造になってしまっていますが、アイデアを書き出して関連づけるという点ではうまくいったと思っています。ゼロからこれを描いた後にロジックツリーのようなツリー構造として整理するまでに、30分ほどかかったかどうかというところです。

あらかじめアイデアにツリー構造が見えているのであれば、マインドマップを飛ばして最初から作ってみても良いでしょう。あるいは、もっといろんなことを書き出してみてカオスの中から秩序を見出すように発表のアイデアを探るのであれば、KJ法を使っても良いでしょう。

なお、ロジックツリー、マインドマップ、KJ法は「問題解決大全」という書籍に紹介されている手法です。興味があればぜひこの書籍も手に取って見てみてください。とてもオススメです。

essay
プログラミングをするパンダ
プログラミングをするパンダ (@Panda_Program)
Software Engineer

最近、話にオチをつける力が弱くなった。私は関西出身ではあるものの、元来話し上手ではない。それでも話に終わりがある方がいいだろう、ストーリーがある方がわかりやすいだろうと思い、密かにオチをつける訓練を積んでいた。

話にオチをつける自主練を始めたのは高校生の時だ。当時は勉強漬けで毎日が変化に富むわけではなかった。しかし、昨日とは違う日常の些細な出来事は何かしら身の回りに起きるものだ。

特に私が通っていた高校は男子校から男女共学に変わって間もない高校だった。男子の多いクラスで、同級生たちが互いにからかい合う場面は1日のうちに数え切れないほどあった。

ランダムに発生する肩パン、靴の片足だけ廊下の向こう側に放り投げる(互いに仲が良いもの同士で、かつ投げられた方は投げた相手のものを笑いながら放り返すのでイジメではない)、毎日四限目に必ず腹を下して授業中にトイレに立つ奴、トイレで遊戯王をしていて教師に見つかって没収される奴、自分は小便に来たくせにトイレの大便の扉が閉まっていたら必ずノックする奴。

果ては、教室で漫画の貸し借りをしていたらそれを廊下から見た教師が「お、エッチな本でも回しとるんけ!俺が学生の頃は必ずある奴で回覧が止まるから、そいつはブラックホールと呼ばれとったんや」と呵々大笑して立ち去るなど。

そのような出来事を眠りにつく前のベッドの上で思い出しては「どのようなストーリーにしたて、オチをつければ人に面白がって聞いてもらえるだろうか」と思案していた。私は当時から完全な夜型で、いつも寝つきが悪かった。今思い返すと、「寝つきが悪い時には楽しかったことを考えていれば寝れる」と自分がもっと小さい時に母親に教えてもらったことを実践していたのかもしれない。

口下手の自分が話し上手に一歩でも近づこうと考えたのがその訓練だった。当時はいつか役に立つだろうと思っていたが、すぐに話の聞き手があるわけでもない。家族仲は悪くなかったと思うけれど、高校1年生になる前のある出来事から両親が遠い存在であるような気がした。それ以来、食卓で両親は会話しているものの、自分からはあまり話さないし話したとしても最低限のことしか伝えなくなってしまった。

妻のおかげで以前よりは両親と話をしたり元気か気にかけたりするようにはなったが、当時は全然だった。そして高校生は忙しい。朝慌ただしく家を出たと思えば、学校から帰った後は塾に行き、家族と顔を合わせるのは夕飯くらいだ。後は自室に引きこもって勉強したり本を読んでばかりいた。

そんな生活で、家の中に常に話の聞き手があるわけではない。しかし学校では一つ前の座席にいた友人に、寝る前に組み立てた話を聞いてもらっていた。

内輪ネタということもありつつ、その友人K君はよく自分の話を聞いてくれた。しかし、自分が話の頭からオチ、果てはその話の感想まで話してしまうので、一通り笑った後に「俺の感想は聞かなくていいのか」と度々眉を顰(ひそ)めていたのを覚えている。

一人喋りになってしまうという弊害はあったが、K君は卒業まで仲良くしてくれて、たまにオススメの本を貸し借りしていた(K君のオススメ本は森奈津子の「耽美なわしら」「姫百合たちの放課後」だった。どれも2回読んだらしい。自分も読ませてもらった)。彼の父親は事業家で、自分の苗字がついたマンションを関西に所有しながらも億単位の借金をしていたという話が彼の口から語られた時、クラスが湧いたことを覚えている。億単位の借金!吹けば飛ぶような一介の高校生には想像ができなかった。

さて、高校を卒業してから10年後、自分はIT企業で働いている。自分の働いている会社では12時から始まる朝会(デイリー、スタンドアップミーティングなどとも呼ばれる)(もはや朝ではない)というものがある。その朝会では先週あったことを話すのだが、「さあ話してください」と言っても誰も手をあげて話そうとはしない。

そんな時、チームで最年少で意気軒昂たる若者だった自分は「先週こんなことがありました!」と食事の話や観光の話など、簡潔ながらも誰も迷子にならないように必要な情報を過不足なく話すようにしていた。

その頃は何でみんな話さないんだろう、きっと面白いことをしているはずなのにという気持ちが半分、そして何で自分は話すことがあるんだ?という疑問を半分ずつ心の中で持ちながら、必ずオチをつけるように話をしていた。思い返すと高校生の時の自主練習が活きていたのかもしれない。

しかし、本当に話がうまかったかはわからない。そして話をしてチームを活気づけようと熱い想いを抱いていたのももう3年前だ。

組織の再編がありプロジェクトが終わってそのチームは解散した。数年後、自分を含む何人かは転職して何人かはまだその会社に残っている。転職先の会社でも3年前と同じように朝会は12時から始まるが、我先にと話し始めるような青臭い情熱はもうない。

もちろん話題を振られればきちんと話はする。しかし、やりすぎかもと自分でも思うくらい熱を込め、率先して雑談の場で話をする気力が衰えると同時に、不思議なことだが自分の話のオチがなくなってしまった。

「今日の雑談はオチがなくてすみません」とヘラヘラ笑って誤魔化してしまう自分の姿を見たら、K君は昔と違う意図を込めて眉を顰(ひそ)めるかもしれない。

プログラミングをするパンダ
プログラミングをするパンダ (@Panda_Program)
Software Engineer

カナダのオンタリオ州トロントから車で1時間のWaterlooの北部、St. Jacobs という小さい町に今私はいる。妻の友人であるカナダ人の女性が挙げる結婚式に参加する予定だ。結婚式前日である昨日、St. Jacobs のビアガーデンに結婚式の参加者が集まった。妻と私はそれに参加した。

まだ空が明るい18時ごろ、オープンエア店の同じテーブルに座った方々はカナダという国の多様性を象徴しているようなメンバーだった。シリアからの移民で英語の先生をしている女性、インド人だがケニアで育った女性、北京出身でカナダに留学している中国人の男女。そもそも花嫁からしてカナダ人だが日本で育って日本語がペラペラなのだ。みんな花嫁の大学時代の友人だ。

同じ大学出身のため大学近くのあの店が好きだなどと内輪ネタもあったが、その中でもカナダについての面白いエピソードをたくさん聞いた。

  • 元々 St. Jacobs はドイツからの移民が開拓した町だからビールがうまい

  • 街を外に出ると熊が出る。しかし性格はおとなしい。ゴミを漁るが人はあまり襲わない

  • カナダを観光するならバンフがおすすめ。6月末か9月頭の夏の始まりか終わりは人が少ない。ロッキー山脈が見れる。3つの国立公園にまたがっている。オーロラも見れる

  • カナダでは、ホッキョクグマを見かけたら一番近くにある誰かの車の中に入れてもらえるとのこと。それが法律で決まっているとのこと

参加者たちのエピソードも面白い。

  • 宗教について、中国人男性の留学時代に宗教勧誘の人が家に来た。中国人だから英語がわからないふりをしたら、宗教勧誘の人が「中国に5年いたから話せますよ」と返してきて困った

  • 一度聖書を genesis から読んだけどみんな名前がJから始まるしややこしいから読むのをやめたとインド人女性

  • 大学の時は階段の下で寝たことがあると花嫁。図書室は24時間開いている。熱心に勉強している学生がいる

あとは金融関係の仕事をしているという中国人が、日本円が今安いから旅行のしどきだと言っていた。確かに旅行するには丁度いいしオススメだ。しかし、円安は devalue といあ単語を使う。このため、円の価値が毀損されていることがはっきりわかってなんだかもやっとした。いや、日本にはぜひ来てほしいのだが。

そして、街中に充満するにおいの原因がわかった。風に乗って飛んでくるのは牛糞や馬糞のにおいだった。メノナイトの人々が昔と変わらない暮らしているので、この地域ではこのにおいが特徴的らしい。20ozもあるアンバーのビールを飲みながら歴史に思いを馳せた。

フィッシュタコス。タコスの皮より魚が大きい

もちろん会話は英語で進む。ただ、会話の内容は大体理解でき、またジョークもいくつか笑いどころで笑えたので、自分の英語のリスニング力はまあまああることはわかった。しかしどうも受け答えはまだそれほどうまくできない。こちらから質問はできるが、質問されるとスムーズに返せないことがもどかしい。話題があちこちに飛んでしまうため、そもそも自分は日本語でも5人以上で会話するのが苦手だ。英語を流暢に話せる妻に感謝している。

それにしても、この記事を書くにあたり「カナダ人の花嫁が」とか「インド人の女性が」と書くことに少し違和感と難しさを覚えた。花嫁は日本育ちで妻いわく中身が日本人なのだそうだ。インド人の方はケニア育ちで、話を聞いているとどうもアイデンティティはケニアの方にあるらしい。

グループの中で一番異なる指標を使って人を区別することは一般に行われているため今回は人種を識別に用いた。しかし、彼女たちのアイデンティティがもし育った国にあるのならば、「この国の人がこういった」という表現はおかしなものになってしまう。

多様性とは、人は一言で表せないという至極当たり前だが日常の中で忘れてしまいそうになる事実にスポットライトを当ててくれるのだろう。ホテルに戻り、酒に酔った頭でぼんやりとそんなことを考えていた。

明日の土曜日には、St. Jacobs のマーケットが開催される。どんなものか楽しみだ。

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