
仏教の考え方を知り、日常で少し実践してみると、これが悟りというものかと思うと同時に、自分がその境地に至るにはまだ早すぎるのではないかと思い至ってやめてしまった。マネージャーとの1 on 1で悟りの境地を語ったら白眼視されてしまったからである。正直、かなり反省した。そして、悟った人というものは社会生活をまともに送れないのではないかと思った。前置きが少々長くなるが、お付き合い願いたい。
私は京都で大学生活を送ったのがきっかけで、神社仏閣を巡るのにハマった。そのうちに、ただ巡るだけでは勿体無いと思って御朱印を集め始めた。もう7年前のことになる。大学卒業後、京都のみならず全国各地に旅行したときは、その土地の主要な神社やお寺を観光ルートに組み込んで参拝し、御朱印をもらうことにしている。その甲斐あって御朱印帳ももうすぐ3冊目に入る。
2024年の読書は思想系に取り組もうと決めた。仕事終わりにある本を書店に探しに行った際、そこに並んでいた『ダンマパダ ブッダ 真理の言葉』を見つけた。
その書店に目的の本はなかった。手ぶらで帰るのもなと思い、この本を手に取って解説パートを軽く立ち読みしてから購入を決めた。
『ダンマパダ』は、紀元前2~3世紀ごろに成立したと推定され、当時すでに成立していた仏教の経典の中から重要な語句を抜粋してカテゴリ別に編集したものだ。成立が古いため、ブッダの教えをかなり生に近い形で記述していると考えられているそうだ。
自分は御朱印を集めたり、過去に禅宗などの仏教の解説書を読んだりしているが、ブッダ本人の教えには直接接したことがないなと思った。
また先月、友人と新幹線に乗っている間、目的地に着くまでに話をしているとたまたま宗教について話が及んだ。その際、京都出身の友人の話が印象に残っていたことも購入の決め手だった。
友人曰く「子供の頃、法事の会場にお坊さんが来てお経を上げてくれてん。読経の後、その場のみんなに対して心に残るいい話をしてくれた。小さいながらにいい話をしてくれたこの人もいい人なんやと思ったんやけど、その後、たまたまそのお坊さんが待合室でタバコを吸っているのをみて一気に幻滅した。結局、その話もいい話だとは思わなくなったし、俺今も仏教信じられへんわ」と。
友人は終始ニヤニヤしながら話していたし、深刻感や悲壮感は全くなかった。その話はいろいろな角度から説明できそうだと思った。ただ、「カエル化現象」とか「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」などのような言葉しか思いつかず、そんなありきたりの言葉で話しても面白くはないかなと思い、「日本では戒律が緩いけど、タイでは厳しいらしい。その坊主が嫌いになっても、仏教は嫌いにならんといて」と返した。友人は「まあ、日本は緩い方らしいな」と言ってくれた。しかし、自分の中ではどうもお茶を濁しただけだったなという感覚しか残らなかった。
さて、書店で本を購入して家路につく途中で改めてこの話について考えてみた。ブッダならそのタバコの僧侶になんと言うだろうか。仏教の教えではどのように扱われるのだろうかと。そして、この本を読み進めていくうちに思わずその答えを見つけた。
307 僧衣を纏っていても、行いが悪く、慎みのない人が多い。
彼らは、悪い行いによって地獄に落ちる。
ダンマパダ (今枝由郎、光文社古典新訳文庫)p.105
地獄に落ちるとはなんとも直接的な表現ではあるが、これは最後の審判で神によって天国か地獄かに分けられるあの西洋的な地獄ではない。仏教上の地獄とは、六道輪廻のそれである。
簡単に書くと、仏教的世界観では、生きとし生けるものは死ぬとまた別の世界で生まれ変わるとされている(輪廻転生)。しかし、何に生まれ変わろうが、生きている限り生老病死(四苦八苦の四苦)に代表される苦しみに苛まれるだけである。このため、目指すべきはこの輪廻の世界からの脱出(解脱)であり、それこそが悟りの境地に至ること(涅槃、ニルヴァーナ)なのである。
では、どのようにして悟りに至るのか。それは、この世は苦しみに満ちていると知ることである。この世は思い通りにならない。一度生まれたからには死にたくない。永遠に若いままでいたい。病気にならず健康で居続けたい。それはどのような科学技術を以てしても土台実現は無理な話なのである。
「この世は苦しみに満ちている。そして、苦しみは物事に対する執着心から生まれる。ならば、執着心を捨てれば苦しみはなくなる。」ブッダの教えは、つまりこう言うことだそうだ。その考え方は彼の言葉に端的に表れている。
50 他人の過ち、他人のしたこと、しなかったことを気にするな。
ただ自分のしたこと、しなかったことだけを気にかけよ。183 自分の心を浄め、もろもろの悪きことをなさず、
もろもろの善いことを行う。これがもろもろのブッダの教えである。
前掲書 p.28, 70
この思想から出てきた箴言の数々を読んだあと、思考実験をしてみた。例えば、大事に使い続けている財布を無くしたり、クラウドに保存した10年以上前から溜めている数々の写真が消えてしまったら、その時自分はどう感じるのか。
また、家族が死んだら自分はかなり長期間に渡って苦しむだろう。一方、自分がじわじわ弱る老衰ではなく突然死んだとしたら、残された家族は一体どうなるのだろうか。ただ、それは突然すぎて想像する余裕すらないかもしれない。
できるだけ若く健康でいたいけれど、それは老いというものを間近で見聞きしたり、病気という身体の不調が精神にまで悪影響を与えるということを知っているからだ。しかし、死というものは、その体験者が誰にも伝えることができないので、どういうものかは実際にわからない。
そういえば、ハイデガーも暇つぶしの空談を避けて自分が死ぬ存在であることを引き受け、自らの生と向き合うべきだと言っている(と文学部の唯野教授が言っていた)。このような執着心についての思考実験が死に対する心の準備なのではないか。
その辺りのことをぼんやり考えていると、しばらくは心配事が何もないような気がした。現に今は家族が心身ともに健康で、自分の衣食住が満ち足りていた。また、最近1年半以上携わったプロジェクトも無事最終リリースに漕ぎつけ、次のプロジェクトにはまだアサインされる前のタイミングであり、仕事のストレスが軽減されていた時期でもあった。
このため、現状に十分満足しているというその気分を大事にしながら、数日後にマネージャーとの30分の1on1に臨んだ。
その1on1は、会社で組織変更があり、担当のマネージャーが新しくなってちょうど1ヶ月ほど経ったときのことだった。すでに彼との1on1は3,4回経験しているものの、リモートワーク中心で働いていることもあって、全部オンラインで実施されていた。また、今までそのマネージャーと対面で話したことがあるのは片手で数えられる程だった。それも挨拶程度で深い話はしたことがない。
そんな状況の中、1on1のアイスブレイクで雑談をしているときだった。マネージャーから振られた話題は最近何にハマってますかというような他愛もないものだったと思う。そこで何を思ったか、自分はこんなことを口走ってしまった。
「最近は仏教思想についての本を読んでいるんですが、なんていうんですかね、なんだか欲がなくなってきたようで、満ち足りているんです。死ぬ準備でもしてるんですかね(笑)」と。半分冗談めかして、しかし半分はこれって人生で大事なことなんだよと思いながら。その時は、まあ特に問題ないだろうと思っていた。
しかし、マネージャーが自分の言葉を聞いた時に、パソコンの画面越しに一瞬目を見開いたのを自分は見逃さなかった。瞬間、しまった、と思った。1on1で話す内容にしてはあまりに場違いすぎた。
それもそのはずである。1on1では、会社の方向性や自分の仕事に由来する悩み事を話したり、また私事で仕事に支障が出る突発的なことを事前に共有するのが通例である。仕事上どうしても伝えないといけないことは意を決して伝えはするものの、基本的に雑談は雑談でしかないので、ハードな話題は避けるべきなのである。
前のマネージャーとの1on1の時は、私もそのような暗黙のルールに従って話題を選んでいた。しかし、マネージャーが変わって心機一転、少し油断が生まれたのかもしれない。逆説的なのだが、ありのままの自分でも受け入れられるのではないかという淡い期待がマネージャーの白眼視をきっかけに消え去ったことで、私自身がそのような期待を抱いていたことに気がついたのだった。
会社の立場に立つと、ある社員が「何事にも満足しており、まるで死ぬことを待っているようだ」などと言っていれば、それは出世や成長を諦めてしまった窓際社員のそれであり、その人は無能のレッテルを貼られてもおかしくないだろう。
企業が従事している経済活動など、人間の欲をドライバーにしている最たる例だ。「もっと市場を広げたい」「より良い製品を作りたい」「現状に満足するな。停滞は衰退である」という思想が隅々まで行き渡った企業組織の中でそんな発言をすると、一瞬で立場が危うくなるだろう。窓際どころか、はっきり言って即クビにされてもおかしくない。
「明日死んでも良いように生きよう」というどこかの偉人が語った境地は、欲を捨て去って満足することではなく、今日の欲を全て満たそうという現実的で力強い標語なのだ。何事にも無欲な人間は会社にはいらないのである。
そんなことが一瞬で頭を駆け巡った。その後は何を話したか覚えていない。直接の前言撤回はしないまでも、「ああ、いえ、ええと、勘違いしないでください。私は労働意欲があり、最新情報の収集を怠らず、大きな仕事を任せてもらって成長したいです」というのが伝わるようになんとか言葉を紡いだ気がする。
1on1が終わり、私は一人自室で取り残された。やっぱりさっきの発言はマズかった。自分の中で思うにしても、口に出すべきではなかったと後悔した。部屋を出てリビングで水を飲んだ。一息ついて、銀行口座の残高を確認し、妻と見知らぬ土地に旅行に行くシーンを想像し、実家の家族の顔を思い浮かべた。
そして、欲というのは生きる原動力だと思い直した。当たり前だが、即座に良い女、良い酒、飲む打つ買うを根本に据えようとまでは流石に思わない。
ただ、衣食住を満たすことや家族をできるだけ守ること、仕事を通じて人と繋がり自分も成長をすること。自分の中からどうしても無くならない、知らないことを知りたいという欲や面白い文章を書き残したいという欲があり、それらが自分を支えていることを見つめ直した。
そして、それらは根源的で受け入れるべき欲求であり、私にとっては煩悩ではないと考えることにした。同時に、ブッダの教えを全て体現するような真の宗教者は、会社に属しては生きられないのではないかとも思った。
翌週、また1on1があった。マネージャーから伝えられたのは、現在難易度が高めのプロジェクトがあって今まさに人手不足なので、そこにヘルプに入ってもらうかもしれないということだった。
よかった。やる気のない社員とは思われていないようだ。「執着を捨てよ」というブッダの教えは自分には早すぎたんだ。80歳になったらまた読もう。いつになるかわからないが、退職するまでは欲に塗れてもがきながら生きていこう。そう決意したのだった。
















